アンダーグラウンドより

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底辺に甘んじてしまう人の特徴

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底辺を語れるのは底辺だけ。
 
というわけで今回は、底辺ブロガーとして定評のある(自称)私もぐらが、底辺に甘んじてしまう人の特徴をこれでもかというくらい紹介していきます。
 
今まで底辺層の人と接してきた経験と今まで底辺層として生きてきた経験、それらを基にしているので内容は我ながら説得力のあるものになっていると思います。
 
 是非とも参考にしていただければ。
 
 

口を開けば愚痴や不満ばかり

底辺層の人間というのは常に不満を抱いています。
 
しかし、それもそのはずで、底辺というのは物質的にも精神的にも満たされない日々を送っているので、愚痴の一つや二つこぼすのは仕方がないことなのかもしれません。
 
金銭的にも不自由なら人間としても成長する場がないし。(ちなみに欲求不満な人間ほど、他人を攻撃したり現状を嘆く)
 
で、その溜まりに溜まった不平や不満はどうなっていくかというと、徐々に態度や言動に現れ始め、終いには底辺ならではの独特のオーラを醸し出すようになります。
 
底辺に甘んじてしまう人というのは、これを良しとする人達。
 
つまり、「なんで俺ばっかり・・・」と他人のせいにし、愚痴をつき、その愚痴がまた新たな愚痴を呼ぶという負のスパイラルに陥っている状況から抜け出せないのです。
 
反対に底辺からなんとか抜け出してやろうと必死な人ほど、愚痴や不満を言いません。というよりも言っている暇はないと書いた方が正確かもしれない。
 
要するに彼ら彼女らは、豊かに生きるためには何をすればいいかを常に考えているので立ち止まっている時間が無いのです。彼ら彼女らにしても不満はあるでしょうが、その不満を根本的に解決するには自分の置かれた環境を変えるしかないと考えています。
 
僕もそんな人間になれるよう努めていきたいものです。
 
底辺に甘んじる人は愚痴や不満を言う。
 
 

責任を負わない

責任逃れは底辺の得意技。おそらく自分のせいにされたくない責められたくないという心理が働いているのでしょう。
 
しかし彼らが思っているほど責任を負うということは辛いことではないかもしれない。
 
なぜなら、責任を負って初めて自分の裁量で物事を推し進められるという権利(自由)を獲得することが出来るのだし、社会においてのポジションも獲得できるのだから。
 
辛いことと楽しいことは対です。逆に楽なことの対は苦しいこと。
 
責任を負わなければ、何も変わりません。
 
また責任をリスクと置き換えても同様なことが言えます。リスクを一つも背負わずにリターンをもらえることは基本的にはないと考えておいた方がいいでしょう。
 
もっと言えば、底辺というリスクは背負っているのに、一時的なリスクや責任は負おうとしないのは大局的に物事を見れていないのかもしれません。
 
底辺で在り続けるのは本人の勝手ですが、一時的な苦痛から逃げても物事が良くなるはずもないし、そもそも底辺自体が大きなリスクです。僕はそのことに早く気付いてほしいとお節介にも思っています。
 

楽な道を選ぶ

目の前に楽な道と厳しい道があったら、底辺の人間は迷いなく楽な方を選ぶ。その見極めの正確さときたら、もはや見事です。少しでも楽な方へ、少しでも苦しくない方へと、彼らは流されていく。
 
しかし責任を負わない項でも述べた通り、一時的に楽な道を選んでも大局的に見れば損になることが多いです。
 
一時の快楽を選ぶのか(楽な道)、将来のリターン(厳しい道)を選ぶのか、賢明な方ならどちらが人生において得するかお分かりでしょう。
 
結局問われているのは、先を見通す力なのだと思います。
 
 

サボることで頭がいっぱい

底辺層の人間の、サボることに対する執念は尋常ではない。どのくらい尋常ではないのかというと、皆さんが持っている物差しではもはや測れないほど。
 
僕も経験上このタイプの人達を多く見てきましたが、彼らはサボれる機会を見つけては引くくらい仕事を放棄していた。
 
隙を見つけてはサボり、隙が無くてもサボり、ただサボる。加えてサボる手段もバリエーションに富んでいて、その知略は軍師並み。トイレに行くふりをしてしばらく帰ってこないとか、用もないのにふらっと姿をくらますとか、こんなのはもう日常茶飯事で。ふざけんな。
 
・・・愚痴がつい(僕も生粋の底辺)
 
えーっと、話を戻そう。
 
で、なぜ彼らがそんなことをするのかというと、その裏にはまたしても、少しでもいいから楽をしたいという思惑が隠されています。彼らにしてみれば1分でも1秒でもいいから仕事から目を背けていたいのです。
 
別に目を背けるのがいけないとは言わないし仕事が面倒なのも否定しないですが、しかしそれにしてもサボることに気を取られ過ぎです。(見ているところが問題ってこと)
 
度を越えたサボり癖というのは周囲の士気を大幅に下げるし、サボったところで何か生産性のあることに活用出来ているわけではないのだから、もう少し節度を守ってほしいものです。
 
 サボり過ぎは信頼も失くすし、得るものもないということ。
 

人生に対して諦念しているが達観はしていない

言い方は悪ですが、底辺に甘んじている人は、基本人生を諦めている(ように見える)。「俺の人生こんなもんだろ」「どうせ俺なんて」と背中に書いてあるのが見えるほど、あきらめムードが漂っています。
 
ただ、底辺に甘んじている人は、諦念はしているのですが達観した様子がない。
 
その理由は簡単で、単純にやれるだけのことをやってこなかったからでしょう。
 
達観している人というのは限界を知っている人。自分にはこの程度まで出来てこれ以上は出来ないという領域が分かっているから、諦めるという選択が出来ます。しかし底辺に甘んじてきた人というのは肝心な場面で自分に言い訳しかしてこなかったので、その領域が分からいでいる。
 
だから底辺に甘んじている人ほど「俺にはまだ隠された才能がある」とか言っちゃうし、「俺は悪くない」という。まさに言うは易く行うは難し。
 
反対に限界を知っている人は謙虚です。自分の出来ること出来ないことの範囲を知っているので奢り高ぶることがない。
 
両者の違いは結局のところ、目の前にあるタスクをこなしてきたかどうかではないでしょうか。大切なのは、やることはやろうってこと。
 
そもそも彼らに隠されているという才能は日の目を見る機会が来るのか?甚だ疑問です。
 

甘言に弱く自分にも甘い

底辺層の人達は、自分を許すハードルが低い。逆説的に言うと、自分を甘やかし続けた結果、社会的な弱者になっているといえます。
 
この意見に対して(全体的にもだけど)、「生まれ育った環境や本人の意思ではどうにもならないことが現実にはある」という反論が予想されますが、それを言い出したらお終いですよね。
 
なぜなら、そんな運命論的な思想に取りつかれたら、努力することすら無意味なものになってしまうし、自分を甘やかすのに都合のいい材料をこしらえてしまうだけだからです。
 
運命があるにしろないにしろ、それを知る術がない以上関係ないです。
 
だからそんな不確定なものを信じるより、自分を信じ、自分に何が出来るのかを考えた方がよっぽど有意義ではないかなと。
 
話は逸れましたが、底辺は自分を甘やかすということです。
 

尊敬するところが見当たらない

尊敬するところが見当たらないのも、底辺に甘んじてしまう人の特徴。
 
尊敬できない理由としては、おそらく自己肯定感が低いからだと僕は思っています。人間は自己肯定感が低いと、自分のことを愛せなくなる。で、自分を好きじゃない人間は他人からも愛されないし、尊敬されません。というメカニズム。
 
環境柄仕方がない気もしますが、底辺はこのメカニズムに陥りやすいし、かくいう僕も自分に自信がある方ではありません。
 
厳密に言えば尊敬できる箇所はあるでしょう。が、それ以上に尊敬できない(こうはなりたくないと思ってしまうような)箇所が目立ってしまっています。
 
大切なのは、小さな成功体験を重ね自信を獲得していくことではないでしょうか。逃げてばかりではなく何かに取り組んでいくことではないのかなと。
 

危機感が欠落している

ああだこうだ言ってきましたが、結局これが一番大事だと思います。危機感があるかないかで、人生は大きく変わってしまう。
 
これは個人的な意見ですが、危機感というのは人間を動かす上で最も大きなファクターであると僕は考えている。
 
確か経済学ではインセンティブ(動機付け)が人間を動かす力だとされていますが、もっと根源的に探っていくと、危機感の方がより人間を動かす大きな原動力だと気づく。
 
なぜなら自然界を生き抜くにあたり目下必要なのは、危険を察知する能力だから。
 
「何を大袈裟な」と言われそうです。確かに仰る通り、文明社会になってから危機感なるものの必要性はぐっと減りました。最低限の身の安全は保障されているし、よっぽどのことがない限り食う物にも困らない。
 
しかし、実社会において底辺を抜け出すというのは、ある種のサバイバルと同義です。他人の椅子を取らなければ、逆に自分の椅子を奪われるハメになる。
 
底辺はこの感覚が弱い気がします。まあ何とかなるでしょと考えるのが、底辺の思考であり底辺たる所以なのかもしれません。
 
結局何が言いたいのかというと、危機感を持って万全を期そうよということ。
 
少なくとも、何とかなるでしょと思うのはいいとしてもその根拠くらいは明らかにしておきたいところ。
 
備えあれば憂いなし。
 

他人に注意できない

僕が出会ってきた底辺層の人達は、他人に対して全く注意をしない人達でした。
 
明らかにおかしい場面でも注意どころか声すらかけない。最初は関心がないのか気付いてないのか分からなかったのですが、最近ではその理由が何となく分かってきました。
 
どうやら彼らは自分が注意するにたる人物じゃないと思っているっぽい。分かりやすく言えば、気が弱いとも。
 
確かに他人を注意するという行為は、エネルギーも使うし中々言いづらいものです。しかし注意とは資格云々など関係なく、ルールを守るよう促すためにある。注意しなければいけない場面というのは存在するし、その時警告しなければ事態はどんどん悪化します。
 
これもおそらく責任逃れの一種でしょう。ここでも底辺は面倒ごとを避ける。またしても一時の苦痛から逃げるのです。
 
他人に注意できないのも一つの特徴。
 

まとめ

環境が影響して底辺になるのは仕方ないとしても、底辺で在り続けるまたは良しとするというのは本人の怠慢によるところが大きい気がします。
 
今回は、甘言を言うことはいくらでも出来たのですが、あえてより現実的な意見を述べさせてもらいました。
 
内容は僕自身が実際に見てきた人たちを参考にしているので、リアリティはあると思います。これを見てどうこうというわけではないですが、何かの折にでも役立ててもらえれば嬉しいです。(僕は自分への戒めにしようと思います)
 
というわけで今回はこの辺で。